曲目解説・たまには有名曲も~「目を覚ませと呼ぶ声が聞こえる」BWV140【三位一体節後第27日曜日】
ついにこの日を迎えることになりました。
今度の日曜日(11月23日)は、三位一体節後第27日曜日。
BWV140は、バッハの最も有名なカンタータですが、実は、この最もめずらしい祭日のためのものです。
復活節が、かなり早く、つまり、3月22日から26日までの間にあった年だけ、この祭日はめぐってきます。
バッハは四半世紀以上、トマスカントルでしたが、その長い長い間にも、わずか2回しか、この祭日はありませんでした。
もっともそのおかげで、わたしたちは、前人未到自由自在の作曲技法を獲得しながら、すでにほとんどカンタータ作曲をやめてしまっていた後期バッハの、新作コラール・カンタータを聴く事ができる、というわけです。
(その2回のうちの1回目、1731年、バッハ46歳の時の作品)
このあたりの事情は、この前書いたテキスト・カンタータなどと同じですが、その中でも、この曲は、全カンタータの中の王冠ともいえるような、内容、完成度を誇るものです。
(参考記事:バッハの最後のカンタータは?)
バッハは、カンタータの作曲をやめてしまってからも、コラール・カンタータ年巻(第2年巻)だけは、自身のライフワークとして、生涯にわたって完成させようとしましたが、この曲は、そのしめくくりのつもりで、全身全霊をこめてこの曲を作曲したものと思われます。
歌詞も、他の曲のように、コラールのテキストだけをそのまま当てはめるのではなく、往年のコラール・カンタータと同じく自由詩もきちんと作られています。
ピカンダーと並び、バッハ最高のパートナーと言われる「謎のコラール・カンタータ詩人」は、もうこの時には、存在していないと推測されるにもかかわらず、です。(「カンタータ詩人(その2)」参照)
確証のないことはあまり書かないようにしたいと思いますが、バッハ先生、詩の面でもよほどがんばったのでしょう。
あるいは、あらかじめ用意されていたか。
いずれにしても、この曲は、星のめぐり-偶然がプレゼントしてくれた、かけがえのない宝物、ということ。
有名な曲だけに、みなさんよくご存知だと思いますし、解説等もたくさんあって、わたしなどが何か書く余地などほとんどないのですが、
せっかくこの祭日がめぐってきたことですし、次、この祭日がいつ回ってくるかわからないので、自分の感想みたいなものを中心にして、曲についての詳細を書いてみたいと思います。
カンタータにあまりなじみの無い方も、聴きたいけれどなかなかとっつきにくい、という方も、この曲だけは、正真正銘名曲中の名曲ですので、この機会に必ずお聴きになってみてください。
(実は、ちょっと、できすぎ、の感もあるのですが。まあ、それだけよくできた曲です)
▽ 秋の植物園
カンタータ第140番 「目を覚ませと呼ぶ声が聞こえる」 BWV140
この曲は、バッハのカンタータの中でも、特にロマンチックで美しいものの一つです。
それは、ひとえに、このカンタータのもとになっている、当日の福音章句によります。
マタイ伝の、有名な「10人の乙女のたとえ」。
花婿の到着を待つ、10人の花嫁のたとえ話です。
花婿の到着が遅れて、花嫁たちは皆、寝入ってしまう。深夜、花婿の到着を告げる物見の声に、花嫁たちは起こされますが、灯火の油をちゃんと用意していた半分の花嫁だけが、婚礼の宴に参加することができた、というもの。
だから、あなたたちも、目を覚まして(常に準備して)いなさい、あなたたちには、その時がいつかわからないのだから、という風にこのたとえ話は結ばれます。
これは教会カンタータですから、
もちろん、花婿はイエス・キリスト、花嫁はわたしたち自身、
「その時」とは、イエスの再臨、つまり世界の終末=最後の審判の時に他ならず、
実を言うと、わたしなどが簡単には触れられないような深刻なテーマを内包しているのですが、
バッハ(とカンタータ詩人)は、例によって中間の自由詩に「雅歌」の甘美なフレーズをふんだんに盛り込み、
花婿と花嫁が結ばれるまでの叙情的な物語を強調し、最後にはその喜びを高らかに歌い上げる、ほとんど結婚カンタータと言ってよいような、美しい愛の音楽に仕上げてくれました。
バッハのカンタータには、ほとんどオペラと変わらないような、ダイアログ・カンタータがたくさんあることは、以前書きましたが、実はこの曲も、限りなくそれに近い構成になっています。
つまり、この曲は、ライプツィヒ2年目に築き上げた、「コラール・カンタータ」というフォーマットに、ダイアログ・カンタータに代表される後期の自由な作風を盛り込んだもの、
その音楽の美しさもさることながら、形式的な点においても、バッハの全カンタータを代表するに足る名作、と言えるわけですね。
わたしはキリスト教の内容については不勉強なので、この記事においても、どなたでもこの曲を楽しんでいただけるように、バッハが強調した「愛のカンタータ」の側面から、音楽について見ていきたいと思います。
なお、この曲のコラールは、あの明けの明星の歌(BWV1に使われ有名)で知られるニコライによる、同名のもの。
マイスタージンガー、ハンス・ザックのメロディが起源とも言われています。
上記内容と関連して、終末思想を歌ったものですが、力強い明るさを持ったコラール。
ペストの嵐が吹き荒れるヨーロッパで、人々に希望を与えた、あの、明けの明星の歌と対をなす名曲中の名曲です。
BWV1などと同様に、このような名曲の場合、そのもとになっているコラール自体も、また名曲だということ。
たった一つのコラールを素材にして、それを、音楽的にも内容的にも徹底的に掘り下げ、展開して、全曲を構成するのが、コラール・カンタータ。
この名コラールを得て、それをバッハが、いかに魅力的な音楽にふくらませたか、
それでは、かんたんではありますが、個々の楽曲を見てゆくことにしましょう。
▽ 秋の坂道
冒頭大合唱
冒頭、オーケストラが刻む、悠然とした(演奏によっては、喜びに踊るような)特徴的な付点リズムは、
荒野をはるばる進んできた花婿の足取りでしょうか。
それに呼応するように、上昇音型が次々と湧き上がり、それはどんどん重なってふくらんでいきます。
夜のしじまをやぶって、にわかに婚礼の城が活気付くようすが目に浮かぶようです。
なんという美しさ!なんというロマン!
この部分はまた、何かとても大切なものが、地の果てまでも、広がっていくようなイメージでもあります。
そして、バッハがここで打ち出した曲調からすると、その世界にもたらされるものは、世界の終末というよりも、やはり、希望の光、と言った方がよりふさわしい。
そして、以上のすべてのできごとは、変ホ長調(3つのフラット)の3拍子、3本のオーボエ、3部に分かれた弦、と、何もかもが3づくしの神聖な世界で、くりひろげられるのです。
それから、このロマンあふれるオーケストラ伴奏が大きくふくらんで一段落したかと思うと、それに導かれるかのように、満を持して合唱が加わり、いつものように各節ごとにコラールが歌われます。
ソプラノによる斉唱と、他の3声による、模倣的展開。
言うまでも無く、この対位法的展開は、他でもない、それまで誰も到達し得なかった高みにすでに到達していた、晩年のバッハの熟達自在の筆致によるもの。
全12節、天と地上を結ぶ数字、12(3×4)種類もの、かけがえのないポリフォニー。
特に短調のアクセントとなる「アレルヤ」の節(第7節)のフガートなど、圧巻。言葉も無い。
もうこれ以上、何が必要でしょうか。
闇の中、いたるところから響きあう「目覚めよ」の声。次々と灯る明かり。
やがてその明かりは、世界全体をくまなく照らし出す。
バッハを聴く至福。
第2曲 レチタティーヴォ
花嫁よ、急いで出ておいで、というさらなる呼びかけ。
そして、「カモシカのように、若い鹿のように、丘を超えて、あなた方のために祝宴を運んでくる」と、
花婿の颯爽としたようすを鮮やかに描写します。
どこか神話の世界を思わせるような、美しいレチタティーヴォ。
最後に、花婿がついに到着したことが告げられる。
第3曲 デュエット
ソプラノ(花嫁)とバス(花婿)のデュエット。
花嫁のあふれる思いが、あこがれが、涙となって滴り落ちるかのような、バッハお得意の、やるせない短調オブリガート。
オブリガートを担当するヴィオリーノ・ピッコロという高音楽器の、震えるような音色が、さらにせつなさを募らせます。
未だ二人は出会ってはいないようで、花嫁が切々とした気持ちを訴えると、どこからともなく、花婿の声が力強く答えます。
ほとんどオペラのラブソングといってもいいような、ストレートな感情表現。
第4曲 コラール テノール独唱(または斉唱)
もはや何一つ書き加えることなどない、バッハその人を代表するような、名高い楽章の登場です。
最晩年のバッハが、自分が生きてきた証でもある膨大なカンタータ楽章の中から、後世に伝えるにふさわしいコラール付き楽章を選りすぐり、ていねいにオルガン編曲を施し、出版したシュープラー・コラール集。
その冒頭、第1曲に、誇らしく掲げられている名作中の名作です。
やさしさ、強さ、あこがれ、慈しみ、
人間のあらゆる善なる側面を押し包むかのように大きな、そう、「大きい」としか言いようのない、人類の書いた最も偉大な旋律と、長い長い歴史の中で絶えることなく歌い続けられてきたコラールとが、まるで、奇跡のように、一つに結ばれます。
BWV147のコラールとよく並び称されますが、BWV147のオブリガートが、ある意味コラールの和音をつなぎ合わせて生み出されたた伴奏であるのに対し、こちらのオブリガートはまったくコラールとは異なる独立したメロディ。
そのメロディとコラールが一つに見事に溶け合うバッハの作曲技法のすさまじさ!
この結合が暗示しているのは、花婿と花嫁の魂の結合に他ならないと、わたしは考えます。
そのことを何よりも物語っているのが、その後の音楽の展開です。
まず、花婿が花嫁を迎え入れることを朗々と告げる、
第5曲 レチタティーヴォ。
(その威厳あふれる歌は、マタイと同様に弦楽の光背を従えているが、ここでのそれはずっと明るく輝かしい)
そして、それに続いて、もはや一点の曇りも無い、まぶしいほどの輝きに満ちあふれた音楽が炸裂します。
第6曲 デュエット
不安やためらいは、もうここにはありません。あらゆる苦悩は消え去り、過去のものとなりました。
軽やかに舞い踊るような、オーボエのオブリガートに導かれ、花嫁と花婿が、喜びあふれる2重唱を繰広げます。
歌詞もメロディも、オペラのエンディングの愛の2重唱としか思えないほどですが、まったく影の無い、不思議な、どこか霊的な明るさは、やはりバッハのカンタータならでは。
極めてストレートな内容ながら、そこは、後期バッハの作品、
このデュエットには、
平行調による合一の象徴を始めとする音楽言語、
さらには、カノンや転回模倣など、
この時期のバッハならではの超絶技巧がふんだんに盛り込まれていて、それが音楽の霊感と格調高い美しさを決定的なものにしています。
これらを味わいつくすのも、何よりの楽しみ。
終結コラール
しめくくりに、名作コラールそのものが、2部音符を単位とした、ていねいで、そして堂々とした和声付けを施され、これ以上無いほど高らかに歌われます。
イオ、イオ、の声が天地にくまなく響き渡るような、目もくらむかのような壮麗さのうちに、全曲が閉じられます。
▽ 秋の野
おしまいに、CDについて。
昔から、例外的に頻繁に演奏され続けてきたカンタータで、また、全集録音においては最も後になる可能性が高いこともあり、CDは、現時点では、ピリオド楽器よりも、モダン楽器の演奏の方が圧倒的に多いようです。
この曲の場合は、まず、カール・リヒターとフリッツ・ヴェルナー、両巨匠の対照的とも言える歴史的な名演を。
いつも同じこと言ってますが、リヒターの強さとヴェルナーのやさしさ。
実はこの言葉は、同じことを別の角度から表現しているだけなのですが。
特に、リヒター盤は圧巻。
冒頭楽章やコラール楽章で、この大巨匠ならではの、何もかも包み込むような分厚く大らかなオケの響きと、大地をえぐるようなリズムを、堪能できます。
リリングは、明るく踊るような、生き生きとしたリズムの演奏
アーリーン・オジェーを始めとする、いつもの歌手やソリストの真摯な表現も、心に直接飛び込んでくる。
トマスカントルの演奏も、さすがに名演がそろっています。
中でも、マウエルスベルガーのものは、ものすごくていねいで、ひたむき。
慈愛にあふれる、というのは、このような演奏のことを言うのでしょう。
シェルヘンのものも、この人らしく、やたら力強いですが、意外と正攻法でなかなか聴かせます。
このように、モダン楽器の演奏に名演がそろっていますが、
ただ、アリアやレチタティーヴォに関しては、ピリオド楽器の鮮烈な響きや若々しい歌も、やはり聴いてみたいところ。
そんな時は、明るく美しいコープマンの全集盤。明朗、と言う言葉がぴったり。
すばらしい世俗カンタータ全集を録音しているコープマン、
この曲の世俗カンタータ的な部分を、堪能することができます。
いずれにしても、この曲に関しては、演奏家の意気込みがやはりちがうため、どのCDも、聴き応えある気がする。
なお、この曲の冒頭、力強い行進曲風でもあるこの部分が、ソフトバンクの犬のお父さんにCMにも使われ、バッハのカンタータがくりかえしくりかえし日本中に流れるという快挙?となったのは、記憶に新しい。
これで名実ともに、「名曲」の仲間入り?
▽ 秋の畑
さて、これで、今年の暦はおしまい。
来週の待降節から、また、新しい暦が始まります。
これまで通り、よろしくお願いします。
今度の日曜日(11月23日)は、三位一体節後第27日曜日。
BWV140は、バッハの最も有名なカンタータですが、実は、この最もめずらしい祭日のためのものです。
復活節が、かなり早く、つまり、3月22日から26日までの間にあった年だけ、この祭日はめぐってきます。
バッハは四半世紀以上、トマスカントルでしたが、その長い長い間にも、わずか2回しか、この祭日はありませんでした。
もっともそのおかげで、わたしたちは、前人未到自由自在の作曲技法を獲得しながら、すでにほとんどカンタータ作曲をやめてしまっていた後期バッハの、新作コラール・カンタータを聴く事ができる、というわけです。
(その2回のうちの1回目、1731年、バッハ46歳の時の作品)
このあたりの事情は、この前書いたテキスト・カンタータなどと同じですが、その中でも、この曲は、全カンタータの中の王冠ともいえるような、内容、完成度を誇るものです。
(参考記事:バッハの最後のカンタータは?)
バッハは、カンタータの作曲をやめてしまってからも、コラール・カンタータ年巻(第2年巻)だけは、自身のライフワークとして、生涯にわたって完成させようとしましたが、この曲は、そのしめくくりのつもりで、全身全霊をこめてこの曲を作曲したものと思われます。
歌詞も、他の曲のように、コラールのテキストだけをそのまま当てはめるのではなく、往年のコラール・カンタータと同じく自由詩もきちんと作られています。
ピカンダーと並び、バッハ最高のパートナーと言われる「謎のコラール・カンタータ詩人」は、もうこの時には、存在していないと推測されるにもかかわらず、です。(「カンタータ詩人(その2)」参照)
確証のないことはあまり書かないようにしたいと思いますが、バッハ先生、詩の面でもよほどがんばったのでしょう。
あるいは、あらかじめ用意されていたか。
いずれにしても、この曲は、星のめぐり-偶然がプレゼントしてくれた、かけがえのない宝物、ということ。
有名な曲だけに、みなさんよくご存知だと思いますし、解説等もたくさんあって、わたしなどが何か書く余地などほとんどないのですが、
せっかくこの祭日がめぐってきたことですし、次、この祭日がいつ回ってくるかわからないので、自分の感想みたいなものを中心にして、曲についての詳細を書いてみたいと思います。
カンタータにあまりなじみの無い方も、聴きたいけれどなかなかとっつきにくい、という方も、この曲だけは、正真正銘名曲中の名曲ですので、この機会に必ずお聴きになってみてください。
(実は、ちょっと、できすぎ、の感もあるのですが。まあ、それだけよくできた曲です)
▽ 秋の植物園
カンタータ第140番 「目を覚ませと呼ぶ声が聞こえる」 BWV140
この曲は、バッハのカンタータの中でも、特にロマンチックで美しいものの一つです。
それは、ひとえに、このカンタータのもとになっている、当日の福音章句によります。
マタイ伝の、有名な「10人の乙女のたとえ」。
花婿の到着を待つ、10人の花嫁のたとえ話です。
花婿の到着が遅れて、花嫁たちは皆、寝入ってしまう。深夜、花婿の到着を告げる物見の声に、花嫁たちは起こされますが、灯火の油をちゃんと用意していた半分の花嫁だけが、婚礼の宴に参加することができた、というもの。
だから、あなたたちも、目を覚まして(常に準備して)いなさい、あなたたちには、その時がいつかわからないのだから、という風にこのたとえ話は結ばれます。
これは教会カンタータですから、
もちろん、花婿はイエス・キリスト、花嫁はわたしたち自身、
「その時」とは、イエスの再臨、つまり世界の終末=最後の審判の時に他ならず、
実を言うと、わたしなどが簡単には触れられないような深刻なテーマを内包しているのですが、
バッハ(とカンタータ詩人)は、例によって中間の自由詩に「雅歌」の甘美なフレーズをふんだんに盛り込み、
花婿と花嫁が結ばれるまでの叙情的な物語を強調し、最後にはその喜びを高らかに歌い上げる、ほとんど結婚カンタータと言ってよいような、美しい愛の音楽に仕上げてくれました。
バッハのカンタータには、ほとんどオペラと変わらないような、ダイアログ・カンタータがたくさんあることは、以前書きましたが、実はこの曲も、限りなくそれに近い構成になっています。
つまり、この曲は、ライプツィヒ2年目に築き上げた、「コラール・カンタータ」というフォーマットに、ダイアログ・カンタータに代表される後期の自由な作風を盛り込んだもの、
その音楽の美しさもさることながら、形式的な点においても、バッハの全カンタータを代表するに足る名作、と言えるわけですね。
わたしはキリスト教の内容については不勉強なので、この記事においても、どなたでもこの曲を楽しんでいただけるように、バッハが強調した「愛のカンタータ」の側面から、音楽について見ていきたいと思います。
なお、この曲のコラールは、あの明けの明星の歌(BWV1に使われ有名)で知られるニコライによる、同名のもの。
マイスタージンガー、ハンス・ザックのメロディが起源とも言われています。
上記内容と関連して、終末思想を歌ったものですが、力強い明るさを持ったコラール。
ペストの嵐が吹き荒れるヨーロッパで、人々に希望を与えた、あの、明けの明星の歌と対をなす名曲中の名曲です。
BWV1などと同様に、このような名曲の場合、そのもとになっているコラール自体も、また名曲だということ。
たった一つのコラールを素材にして、それを、音楽的にも内容的にも徹底的に掘り下げ、展開して、全曲を構成するのが、コラール・カンタータ。
この名コラールを得て、それをバッハが、いかに魅力的な音楽にふくらませたか、
それでは、かんたんではありますが、個々の楽曲を見てゆくことにしましょう。
▽ 秋の坂道
冒頭大合唱
冒頭、オーケストラが刻む、悠然とした(演奏によっては、喜びに踊るような)特徴的な付点リズムは、
荒野をはるばる進んできた花婿の足取りでしょうか。
それに呼応するように、上昇音型が次々と湧き上がり、それはどんどん重なってふくらんでいきます。
夜のしじまをやぶって、にわかに婚礼の城が活気付くようすが目に浮かぶようです。
なんという美しさ!なんというロマン!
この部分はまた、何かとても大切なものが、地の果てまでも、広がっていくようなイメージでもあります。
そして、バッハがここで打ち出した曲調からすると、その世界にもたらされるものは、世界の終末というよりも、やはり、希望の光、と言った方がよりふさわしい。
そして、以上のすべてのできごとは、変ホ長調(3つのフラット)の3拍子、3本のオーボエ、3部に分かれた弦、と、何もかもが3づくしの神聖な世界で、くりひろげられるのです。
それから、このロマンあふれるオーケストラ伴奏が大きくふくらんで一段落したかと思うと、それに導かれるかのように、満を持して合唱が加わり、いつものように各節ごとにコラールが歌われます。
ソプラノによる斉唱と、他の3声による、模倣的展開。
言うまでも無く、この対位法的展開は、他でもない、それまで誰も到達し得なかった高みにすでに到達していた、晩年のバッハの熟達自在の筆致によるもの。
全12節、天と地上を結ぶ数字、12(3×4)種類もの、かけがえのないポリフォニー。
特に短調のアクセントとなる「アレルヤ」の節(第7節)のフガートなど、圧巻。言葉も無い。
もうこれ以上、何が必要でしょうか。
闇の中、いたるところから響きあう「目覚めよ」の声。次々と灯る明かり。
やがてその明かりは、世界全体をくまなく照らし出す。
バッハを聴く至福。
第2曲 レチタティーヴォ
花嫁よ、急いで出ておいで、というさらなる呼びかけ。
そして、「カモシカのように、若い鹿のように、丘を超えて、あなた方のために祝宴を運んでくる」と、
花婿の颯爽としたようすを鮮やかに描写します。
どこか神話の世界を思わせるような、美しいレチタティーヴォ。
最後に、花婿がついに到着したことが告げられる。
第3曲 デュエット
ソプラノ(花嫁)とバス(花婿)のデュエット。
花嫁のあふれる思いが、あこがれが、涙となって滴り落ちるかのような、バッハお得意の、やるせない短調オブリガート。
オブリガートを担当するヴィオリーノ・ピッコロという高音楽器の、震えるような音色が、さらにせつなさを募らせます。
未だ二人は出会ってはいないようで、花嫁が切々とした気持ちを訴えると、どこからともなく、花婿の声が力強く答えます。
ほとんどオペラのラブソングといってもいいような、ストレートな感情表現。
第4曲 コラール テノール独唱(または斉唱)
もはや何一つ書き加えることなどない、バッハその人を代表するような、名高い楽章の登場です。
最晩年のバッハが、自分が生きてきた証でもある膨大なカンタータ楽章の中から、後世に伝えるにふさわしいコラール付き楽章を選りすぐり、ていねいにオルガン編曲を施し、出版したシュープラー・コラール集。
その冒頭、第1曲に、誇らしく掲げられている名作中の名作です。
やさしさ、強さ、あこがれ、慈しみ、
人間のあらゆる善なる側面を押し包むかのように大きな、そう、「大きい」としか言いようのない、人類の書いた最も偉大な旋律と、長い長い歴史の中で絶えることなく歌い続けられてきたコラールとが、まるで、奇跡のように、一つに結ばれます。
BWV147のコラールとよく並び称されますが、BWV147のオブリガートが、ある意味コラールの和音をつなぎ合わせて生み出されたた伴奏であるのに対し、こちらのオブリガートはまったくコラールとは異なる独立したメロディ。
そのメロディとコラールが一つに見事に溶け合うバッハの作曲技法のすさまじさ!
この結合が暗示しているのは、花婿と花嫁の魂の結合に他ならないと、わたしは考えます。
そのことを何よりも物語っているのが、その後の音楽の展開です。
まず、花婿が花嫁を迎え入れることを朗々と告げる、
第5曲 レチタティーヴォ。
(その威厳あふれる歌は、マタイと同様に弦楽の光背を従えているが、ここでのそれはずっと明るく輝かしい)
そして、それに続いて、もはや一点の曇りも無い、まぶしいほどの輝きに満ちあふれた音楽が炸裂します。
第6曲 デュエット
不安やためらいは、もうここにはありません。あらゆる苦悩は消え去り、過去のものとなりました。
軽やかに舞い踊るような、オーボエのオブリガートに導かれ、花嫁と花婿が、喜びあふれる2重唱を繰広げます。
歌詞もメロディも、オペラのエンディングの愛の2重唱としか思えないほどですが、まったく影の無い、不思議な、どこか霊的な明るさは、やはりバッハのカンタータならでは。
極めてストレートな内容ながら、そこは、後期バッハの作品、
このデュエットには、
平行調による合一の象徴を始めとする音楽言語、
さらには、カノンや転回模倣など、
この時期のバッハならではの超絶技巧がふんだんに盛り込まれていて、それが音楽の霊感と格調高い美しさを決定的なものにしています。
これらを味わいつくすのも、何よりの楽しみ。
終結コラール
しめくくりに、名作コラールそのものが、2部音符を単位とした、ていねいで、そして堂々とした和声付けを施され、これ以上無いほど高らかに歌われます。
イオ、イオ、の声が天地にくまなく響き渡るような、目もくらむかのような壮麗さのうちに、全曲が閉じられます。
▽ 秋の野
おしまいに、CDについて。
昔から、例外的に頻繁に演奏され続けてきたカンタータで、また、全集録音においては最も後になる可能性が高いこともあり、CDは、現時点では、ピリオド楽器よりも、モダン楽器の演奏の方が圧倒的に多いようです。
この曲の場合は、まず、カール・リヒターとフリッツ・ヴェルナー、両巨匠の対照的とも言える歴史的な名演を。
いつも同じこと言ってますが、リヒターの強さとヴェルナーのやさしさ。
実はこの言葉は、同じことを別の角度から表現しているだけなのですが。
特に、リヒター盤は圧巻。
冒頭楽章やコラール楽章で、この大巨匠ならではの、何もかも包み込むような分厚く大らかなオケの響きと、大地をえぐるようなリズムを、堪能できます。
リリングは、明るく踊るような、生き生きとしたリズムの演奏
アーリーン・オジェーを始めとする、いつもの歌手やソリストの真摯な表現も、心に直接飛び込んでくる。
トマスカントルの演奏も、さすがに名演がそろっています。
中でも、マウエルスベルガーのものは、ものすごくていねいで、ひたむき。
慈愛にあふれる、というのは、このような演奏のことを言うのでしょう。
シェルヘンのものも、この人らしく、やたら力強いですが、意外と正攻法でなかなか聴かせます。
このように、モダン楽器の演奏に名演がそろっていますが、
ただ、アリアやレチタティーヴォに関しては、ピリオド楽器の鮮烈な響きや若々しい歌も、やはり聴いてみたいところ。
そんな時は、明るく美しいコープマンの全集盤。明朗、と言う言葉がぴったり。
すばらしい世俗カンタータ全集を録音しているコープマン、
この曲の世俗カンタータ的な部分を、堪能することができます。
いずれにしても、この曲に関しては、演奏家の意気込みがやはりちがうため、どのCDも、聴き応えある気がする。
なお、この曲の冒頭、力強い行進曲風でもあるこの部分が、ソフトバンクの犬のお父さんにCMにも使われ、バッハのカンタータがくりかえしくりかえし日本中に流れるという快挙?となったのは、記憶に新しい。
これで名実ともに、「名曲」の仲間入り?
▽ 秋の畑
さて、これで、今年の暦はおしまい。
来週の待降節から、また、新しい暦が始まります。
これまで通り、よろしくお願いします。
この記事へのコメント
カンタータを語らせたら本当に天下一品ですね。
読んでいて、無性に曲を聴きたくなって、結局まるまる通して聴いてしまいました(笑)。
内容的には「終末思想」という点が考えさせられました。
私が今まで聴いたカンタータの中ではこの第140番が一番好きです。
特に第1曲と第4曲。第4曲についてはどう聴いても私には独唱よりも合唱のほうが美しく崇高に聞こえます。なにせ「コラール」ですし。
なので私の好きな演奏はクルト・トーマス盤なのです。リヒターもマウエルスベルガーも独唱なので私としてはちょっと、なのですね。
せっかく暦がここまで巡ってきたので、たまには有名曲を取り上げてみようと思ったのですが、BWV140、ほとんど聴いたことがないことが判明しびっくりしました。
通常暦はここまできませんし、この曲、ほとんど新譜もリリースされてないんですね。
あわてて何種類か聴き比べてみました。
今さら言うのもまぬけですが、やはり、いい曲ですね。
独唱と合唱では、やはり雰囲気がぜんぜんちがってきますね。
カンタータの場合、楽譜が整理されていなかったり、再演が多かったりで、他にもオブリガート楽器が異なるようなこともあって、指揮者によって演奏がまったくちがうことが多いです。
最近ではOVPPも定着してきましたし。
中には、コラールの素材を器楽のフレーズとして使用しているのを、目立たせるために実際に歌ってしまっているような演奏まであります。
ブルックナーではないですが、同じ曲で、いろいろなバージョンを楽しめるのも、大きな魅力ですね。
連休の真ん中が休日出勤とは、さんざんでしたね。
わたしは三日間休めましたが、今日の東京は真冬のように冷たい雨で、ちょっと出かける気にはなりしません。
コメントしていただいた文章を読んで、あらためて考えてみると、
確かに、バッハは、男女の恋愛など、世俗的な、日常のあたりまえのことを、ほとんど信仰と区別していないところがありますね。
世俗的な器楽曲についても、宗教曲とまったく同じ姿勢で作曲していることはよく言われています。
特に改めて信仰についてあれこれ考えなくても、あたりまえのこととして、そこにある、というような。
バッハなどにとっては、信仰=生活そのものだったんでしょうね。
遅ればせながら、ライオンズの日本シリーズ&アジアシリーズ優勝、おめでとうございます。
それにしても強かったですね。
三位一体節後第27日曜日は、バッハの全生涯でも、3回しかなかったそうです。
記事に書いたように、ライプツィヒで2回、あとは、ヴァイマール時代に1回です。そんな祝日のために、全力でこんな名作を書いてしまうところが、いかにもバッはらしいです。
ただ、さすがにこのままでは、曲自体が埋もれてしまうと考えて、真っ先にシュープラーコラール集に入れたのでしょうね。
> まさに音画に相応しいというか、絵画どころか映像を見るようですね。
おっしゃるとおり、バッハのカンタータには、映像が見事に浮かび上がってくるような作品が多いですね!しかも、巨大な壁画のような。
もちろん、ただ聴いただけでも、そのような場合多々ありますが、いろいろと調べて音楽表象を把握すると、その壁画がより鮮明になることもあり、それこそがバッハの奥深さだと思います。
解説読ませていただき、この音楽のすばらしさが文章で伝わってきます。
特に
>ほとんど結婚カンタータと言ってよいような、美しい愛の音楽に仕上げてくれました。
は、全く同じ思いです。
コラールを繰り返し使っているのもバッハの思い入れがさぞ大きかったと思います。
はじめて聞いたカンタータがこの曲で、それ以来バッハファンになりました。
カンタータは、もっと演奏され、聴かれてもいいと思います。
ところで、お願いです。
当方の関連サイトから、この解説にリンクを張りたいのですがよろしければご了解をいただきたいのですがいかがでしょうか。
http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=232754
よろしくお願いします。
どうぞよろしくお願いいたします。
リンクの件、どうぞご自由になさってください。
Promusicaさんの演奏も何曲か聞かせていただきましたが、カンタータをはじめ、バッハの声楽曲を、実にていねいに多重録音なさっていて、すばらしいですね。
他にも、ルネッサンス音楽やビートルズなど、わたしが好きな音楽もたくさんあるので、ゆっくりと聞かせていただき、今度改めて、こちらからもリンクさせていただければ、と思います。
バッハの音楽は音だけでもちろんすばらしいのですが、歌詞の意味や背景などでさらに理解を深める事ができます。Noraさんの一言一言で、この曲のすばらしさが多くの人に伝わるといいと思います。
「ルネッサンス&バロック 音楽倉庫(演奏の部屋)」というリンクページがあるのですが、そこからリンクさせていただきました。
(→右URL欄→ トップページからも行けます)
相変わらず”時期はずれ”なのですが、BWV140のコラールをアップして、リンクをはらせていただきました。いつもありがとうございます。
→ http://vc-okok.seesaa.net/article/197551994.html
時期はずれだけど、この時期だからこそ、という感じなのです。
改めて聴き直しましたけど、やっぱりいい曲ですねえ。
葛の葉さんのところにあったリヒターの古い音源も聴きましたが、第1曲の出だしで震えました。リヒターのテンポはやっぱり絶品ですね。
演奏聴かせていただきました。魂の入ったすばらしい演奏だと思います。
それにしても、BWV140のコラール、いいですね。
BWV1のコラールと同じく、おっしゃるとおりの「この時期だからこそ」の音楽だと思うので、少しでも多くの方に聴いていただきたく、新しい記事の中でリンクさせていただきました。